恥ずかしながら、齢25を目前にしてはじめて公共図書館を利用した。

 幼少期から、学校併設の図書館が苦手だった。ラミネートされて少しぺたぺたする表紙、背の糊が柔らかくなって容易に大開脚するページ、誰かの落書き。本は好きだったので図書委員も何度も経験はしているのだが、自分が読むために利用した事はほとんど無かった。

 我が家は、裕福ではないどころか、大人になった今考えるとどうやってあの手取りで娘2人、しかも年子を育てたのか皆目見当もつかないようなお貧乏一家だった。もちろん本を読む習慣なんて知らないし、学べるような本も家には無い。

 小学生低学年の頃だったろうか。当時DSの初代やたまごっちが流通していた時だ。中古ゲーム・本を取り扱う店を家族で訪れた事があった。500円を渡されて、好きな物を買っていいよと言われたのだと思う。

 ゲームは本体を持っていないし、カードゲームはお金がかかるし、買って楽しめるものは本しか無かった。その時の私は、分厚くて大きくて文字が沢山書いてある本の方が長い時間楽しめるとでも思ったのだろうか。最終的にレジを通り我が物になったのは、何かの全集大型本の福沢諭吉とナイチンゲールの伝記だった。

 無論、私は福沢諭吉もナイチンゲールも誰なのか知らなかった。なぜこれを選んだのかはもう記憶に無い。でもこの本達は、母の居ない長い時間の中で暇を潰してくれる相手となった。(貰い物だった説もある)

 それからしばらくして、再び家族で連れ立って本を買う機会があった。もちろん本を買ったのは私だけで、他の面々が何を買いに訪れたのかは記憶が無い。今度は新品の本。宮沢賢治の銀河鉄道の夜。

 これは持っていたお小遣いで買った。生まれて初めて、自分のお金で買った本。初めての本にしては難しいものを選んだと思うだろう。私もそう思う。それもそのはず、当時の私は銀河鉄道999と間違えてこれを買っただけなのだ。

 当時、親がやっている店の事務所にあるパソコンでよく暇を潰させて貰っていた。変に弄ると店のBGMが変わってしまうので、使う事によるPC教養として触らせて貰っていた訳では無いが、ひたすらYahoo!のサービスで古いアニメを見漁っていた。私達はいわゆるZ世代。ポケモンと同じ頃に生まれ、プリキュアと育ってきた世代だ。しかし思い返すと私の脳裏には「名犬ラッシー」「銀河鉄道999」など、暫し世間ズレしたラインナップが蘇るのだ。

 銀河鉄道999の曲が好きだった。物語はよく分からなかった。本を手にしたその時は、アニメは店に行っていい時にしか見れないけれど、文字なら家でも読めるじゃん!と喜んだ。しかし、世界にどれだけ沢山の物語があって、どれだけ沢山の似たようなタイトルがあるのかを知らない蛙は、「銀河鉄道999」と「銀河鉄道の夜」を区別する知見が無かったのだ。

 読んでいて何か違うなとは思ったが、普通に面白かったので気にせず読んでいた。読む力がある訳では無いので、長い時間をかけて少しずつ読んだ。そして宮沢賢治にハマり、小学生時代後半のお小遣いを宮沢賢治につぎ込み、分厚くて文字に溢れた沢山の物語をゆっくり、ゆっくり愛した。

 私にとってはそれが「本」のすべてだった。傍には常に宮沢賢治が控えているので、図書館で新しい本を借りようとは思わなかった。でも、本自体は好きだったので試しに図書委員になってみると、同年代が読んでいる本が「かいけつゾロリ」や「しずくちゃん」、子供向けのイラスト満載の伝記という事に気付き、衝撃を受けた。そら宮沢賢治は難しいわけだ!私が踏むべき段階は図書館にこそあったのに、むざむざとそれを素通りしていたのだ。

 そこで最大の気付きを得たものの、人気で予約が埋まっている本をわざわざ借りようとは思わなかった。なにより手元には読み切らない宮沢賢治がたくさん残っている。自分には○○があるからいーや!これが今も変わらぬ私の本質だ。

 その後、中学になってからもお小遣いでちまちま小説を買っていたが、ここでも更なる偏屈を発揮する。田舎の寂れた大型書店とは言えども、人気の定番出版社の棚にはそれなりの人数が滞留している。立ち読みが主目的な人も多いから中々割り込める余地が無い。自分も別に何か目的の本があって買う訳では無いので、おのずとして人が少ない棚へと吸い寄せられていく。そして辿り着くのは、宝島やハヤカワのあたりへ。

 この辺りは官能小説も陳列されている事が多いので、ウブで耐性の無い私にとっては横断歩道の白線を踏み外さないように歩いているような気持ちで本棚を眺め歩いていた。ほとんど人が来ず、ゆっくりと端から端まで見れる私のオアシス。たまにシュッと来てシュッと居なくなるおじさんは無害なので何とも思わない。

 そうして最終的には今も続くハヤカワ文庫ファンへと成長したのだった。それもスペースオペラやミステリーではなく、言葉がおかしくなったり人がおかしくなったり時間がおかしくなるタイプのSFのファンに……。

 好きな小説は何度も読み返したし、難しい本は時間をかけてゆっくりと読み進める。数時間売り場を練り歩いて決めて自分のお小遣いで買うから面白くないわけが無い。ベスト・オブ・私チョイス。

 そんなこんなで図書館に用事が発生しないまま高校を卒業し、今に至るのである。ティーン向けやライトノベルも中学の時にデビューしたにはしたが、大半がセリフで構成されていてスカスカな印象を持ってしまい、あまり魅力を感じる事が出来なかった。

 さすがにそこまで図書館に用がないような読書生活をしていると、大人になっても図書館に行こうとは思わないし、自分でも一生用事が無いと思っていた。

 そんな私が公共図書館デビューをしたきっかけは、市史を閲覧するためだった。趣味で創作をしている都合で、とある市について調べようとしていたのだが、市史がどんなものか分からずに1巻5,000円を超えるものを買い揃えるにはリスクが高いし、本当にその市だけ読めれば良いのか、他の市町村の史誌も併読する必要があるのかが分からなかった。

 二年ほど前から「古書」という手段を手に入れてからは、国立国会図書館サーチ NDL SEARCH(https://ndlsearch.ndl.go.jp)を活用していたので、蔵書されている図書館の欄を確認する習慣だけはあった。

 そのため、常に思考の端の方には「図書館」という手段がチラついて居た。しかし、さっさと読了して消費するような用途では無いので、常に手元に置いておいていつでも開けるようにしたいという思いが強かったので、いつも買うことばかり考えていた。

 普段は、日本の古本屋(https://www.kosho.or.jp)で流通されていれば予算の限り買い漁り、手元に取り寄せる。古書は、古書としての価値はとても高いものの、古書自体の価格は驚くほど安い事が多い。かつて1巻5,000~6,000円だった12巻揃えの全集でも、今となっては1巻分の値段で全集を丸ごと購入する事が出来る。もちろん、現在も新刊として発売されているのであれば、必ず新刊として購入することにしている。

 買えるなら買おうと思ったが、その市のWebサイトには市史や文化財等調査報告書の販売案内が無かった。思い切って問い合せをしてみたところ、販売している書籍の一覧を添付して送って頂けた。今も市史が買えるのであれば市への貢献の為にも是非買いたい。そして先述の「市史分からなすぎ&高すぎて買う決断が出来ない問題」に直面したのであった。

 もう、どうにもこうにも図書館へ行って試し読みをするしかない。約25年の人生で初めて、公共図書館へ行かねばならないきっかけが生まれたのだ。

 そして、秋に満たされた土曜日。私は意気揚々と東京都立中央図書館へと向かった。借りれないタイプの図書館なので、入館の仕方、書庫の本を出庫してもらう方法、現在の館内規則などは入念に調べて行ったので特に問題は起きなかった。

 目当ての市史は閉架書庫ではなく、3階の開架書庫に陳列されていた。そして左右にずっと連なる棚、棚、棚。その時の私は、この視野に入る全ての本を、全ての知識を一文字たりとも知らなかった。どれだけ人生を費やしてもこのエリアにある本でさえ読み終える事は出来ないだろう。一人の人生の長さを遥かに超えた集合知の記録がそこには広がっていた。

 未知の世界。文字通りの「未知」が読み切れぬ本としてそこにあったのだ。その現実に心が奥の底から震え立った。どれを手に取っても新しい出会いがある事に。この一端を今から手に取り読む事に。

 未知との遭遇に図書館はふさわしい。今後も定期的に図書館へと行き、全然知らない分野の本に出会うのも良いかもしれないと思った。


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