時代劇を観て思うこと


 時代劇が好きだ。存在していた確かな「知らない世界」に飛び込むというリアリティのある没入感が堪らない。そこに生きた人々を尊び、偲ぶ。見たことの無い時代、舞台、感じたことの無い空気、匂い。しかし、しかし!今の自分の足元と確かに地続きの物語なのだ!

 だが、あまりにも前のめりに没入を渇望していると、想像力が作品の映像技術力を追い抜かしてしまい、心の端で落胆してしまう事がある。

 時代劇は実在建物と映画用のセットの差が顕著に出てしまい、撮影セットのシーンになると僅かにメタフィクションの引力で素面に戻る瞬間がある。決して撮影セットがいい加減という訳では無いのだが、撮影的に合理的な形状、見晴らしの悪さ、突然の高度なカメラワークなどが、意識の端でじわじわと燻る事がある。

 制作者目線で言えば、表現者であるからには観客の没入感120%の舞台を用意したい気持ちでいっぱいだが、凝れば凝るほど、時間をかければかけるほど、予算もスケジュールも飛んで無くなっていくため、これからメインディッシュというところで泣く泣く諦めなければならない事はざらである。むしろほとんどそうだとも言える。表現者でありながら、脳裏に理想の舞台を描きながら、自分の名前で作品として出すものが、わずか30%の愛と力しか捧げられなかったことに対する悔しさと落胆にはいまだ慣れる事が出来ない。

 では予算とスケジュールさえあれば完全無欠の舞台を用意して映像を撮ればいいのかと思われるが、決してそうではない。観客は没入だけをしに映像を見る訳では無いし、画面の中で意識を向けさせたいポイントを絞り、より快適に視聴頂く必要もある。よい形になった画面で、よりよく集中してもらった上で、細かい部分は視聴者の想像の余地と余白で補う方法が最もスマートだろう。だがここまで考えて映像を作れる現場などそう無いだろうし、不景気だし、何をどうすればそういった映像が出来るのか私にはまだ分からない。

 そう考えると、やはり商業制作として大きな実験は難しいだろうから、挑戦し遊びバランスを執るための遊び場としては個人制作が妥当なのだろう。

 特にアニメの場合はロケ地の心配は必要なく、代わりに知識さえ詰め込んでしまえばいくらでも「無い土地」を創造して使いたい放題にできる。また、情報過多でも問題無いシナリオや脚本、カメラワークも個人の一存で仕込む事が出来、より鮮明に・鋭敏に・先鋭な表現の追求が出来るだろう。

 だが仕事とは別のフィールドで、1人で全てを準備するのは仕事の数百倍は下らない時間がかかる。人を集めて人海戦術で作品を作ることも出来るが、終わらせないといけない責任があるがために挑戦出来ることは少なくなってしまう。自由が故の1人、1人が故の自由とは、孤独で過酷で長い旅なのだ。

 幸いにも食い扶持には困っておらず、仕事で他セクションや監督職の仕事を間近に見て聞き成長できる環境もあるので、引き続き気長に個人制作を進めていこうと思う。

P.S.

それにしても壬生義士伝、良い映画だったなぁ〜……!


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